F1の歴史 1950年代 イタリア勢力の時代

フォーミュラ1(フォーミュラとはすべての関係者およびマシンに求められる一連の規則を意味し、もともとはフォーミュラAとして知られていた)のルーツはモーターレーシングが始まった初期までさかのぼり、両大戦間に上昇傾向のあったヨーロッパのレーシングシーンから誕生した。フォーミュラ1のドライバーズ選手権に関する計画は1930年代後半に議論されたものの、第二次世界大戦の開始によって棚上げされてしまう。

1946年に再び検討され、その年のうちに最初のレースを実施、翌年にはドライバーズ選手権の開催が決まった。細かな調整は1950年まで行われ、同年5月、シルバーストーンで初めての世界選手権が開催される。F1の初レースはその1カ月前にポーで行われており、この年のタイトルは7戦のみがカウントされたが、チャンピオンシップは大いに盛り上がった。チャンピオンシップのレースが増えた後も、多くの非選手権のF1レースが開催されている。非選手権はコスト上昇に伴い利益が見込まれなくなった1983年まで続いた。

 


1950年のF1世界選手権

1950年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第1回大会である。1950年5月13日にイギリスで開幕し、9月3日にイタリアで開催される最終戦まで、全7戦で争われた。

シーズン概要[編集]
FIAがF1世界選手権規定を新設[1]、インディ500も選手権レースに認定し年間のレースで入賞に応じてポイントが与えられ[1]、その総合得点で競う世界選手権が開始された。アルファロメオ[1]が圧倒的[1]な戦闘力を発揮し、ジュゼッペ・ファリーナ[1]が最初のF1世界選手権チャンピオン[1]となる。

 

アルファロメオ・ティーポ158

フェラーリ・500F2

1952年に初めてアルベルト・アスカリがドライバーズタイトルを獲得し、フェラーリにとって記念すべきマシンとなった「500F2」。

1952年のF1は参戦台数が少なくなるという懸念があり、F2の車両で世界選手権が行われるという異例のシーズンでした。

もとはF2の車両として開発されていたために、マシン名に記されることとなりました。

翌年も改良を重ねながら使用され、2年連続で王座を獲得。


1957年のF1世界選手権

1957年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第8回大会である[1]。1月13日のアルゼンチンで開幕し、9月8日のイタリアにおける最終戦まで全8戦で争われた。ファン・マヌエル・ファンジオが4連覇、自身5度目のタイトルを獲得した。

シーズン概要[編集]
シーズン開幕前にファンジオはチーム移籍を決断、マセラティに加入した。この移籍は大成功であったことが判明した。フェラーリにはピーター・コリンズ、エウジェニオ・カステロッティ、そして復帰したマイク・ホーソーンがいたものの、いずれも勝利することはなかった。カステロッティとアルフォンソ・デ・ポルターゴはシーズン中に事故死し、1957年シーズンはフェラーリにとって悲惨なものとなった。
ファンジオがマセラティに加入したことで、スターリング・モスはヴァンウォールに移籍した。ファンジオはシーズン4勝を挙げ、一方のモスは3勝を挙げた。ニュルブルクリンクでファンジオはピットストップで1分近くとどめられた後、最終ラップの前にコリンズとホーソーンを抜いて優勝した。
その年末、ファンジオは翌シーズンはフル参戦しないことを発表した。また、経済的理由のためマセラティはワークス活動を休止した。1957年シーズンは共有ドライブにポイントが分割配分された最後のシーズンであった。

 

マセラティ・250F

マセラティの歩み:黄金期 1937-1967年

 1937年、マセラティ兄弟は自社株式をモデナのオルシ一族に売却した。
これに伴い、会社はボローニャからモデナ市ヴィアーレ・チーノ・メノッティの現在の歴史ある本社に移転。兄弟の一人エルネストはすでに1930年代後半に活躍したレーシングカー4CL、8CLに搭載された同名のエンジンを開発しており、マセラティ兄弟は1948年までモデナでチーフ・エンジニアとして在籍した。
マセラティはメルセデスの執拗な追い上げにもかかわらず、再びレーシング界を席巻。1939年5月30日には8CTFを駆るウィルバー・ショウが命運のかかったインディアナポリス500マイル・レースで優勝し、翌年は連覇を成し遂げた。
第2次世界大戦の戦時体制下では生産を工作機械や電気部品、スパークプラグ、電気自動車に切り替えたが、戦後は通常生産に戻り、新型GT車A6 1500を世に送り出した。
アルベルト・アスカリが駆るA6G CSは、モデナ・サーキットで華々しくデビュー。当時は、アルフェッタ、フェラーリ、タルボットといったライバルと競い合った。優勝を数回果たしたものの、1950年代になるとアルファロメオとフェラーリの追い上げが厳しくなり、マセラティは苦戦を強いられるようになる。しかし1953年にはチーフ・エンジニアに任命されたジョアッキーノ・コロンボがA6GCMをモディファイしたことに加え、ファンジオやゴンザレス、マリモン、ボネット、ド・グラッフェンリードといった名ドライバーを迎えてチームは活気づき、この年のシーズンには画期的な優勝を数回果たした。同年イタリア・グランプリではファンジオがアスカリとファリーナの駆るフェラーリと最後まで競り合い、最終コーナーで優勝を決めるデッドヒートを演じた。
コロンボはマセラティ 250Fの礎も築き、その後をアルフィエリが受け継いだ。250Fは、1954年のデビュー戦でファンジオをアルゼンチン・グランプリの優勝へと導いている。
1955年、56年にもマセラティは重要な優勝を果たし、1957年にはマセラティに復帰したファンジオが250Fで5年連続となる世界タイトルを獲得。マセラティに初の世界タイトルをもたらした。