ACFグランプリ

グランプリの起源

 自動車レースでのグランプリという名称は1901年のグランプリ・ド・ポーが最初とされている。しかし、現代まで続くグランプリは、1906年にフランス自動車クラブ(ACF)がル・マン市郊外で開催したACFグランプリはフランス語で「大賞」を意味し、その開催国で最高のレースとして年1回だけ開催される。
 このACFグランプリには、参戦車両の規定が設けられていた。ライト、フェンダー、シート、車載工具を除いた状態での最大車重1000kg(マグネット分の7kgまでの増加は可能)というものだった。また、100kmを30リットル以内の燃料で走るという最大燃費規定もあった。
 第1回AFCグランプリは、ル・マン市郊外の公道を使った1周103kmのコースを2日間で16周ずつ走る競技として開催された。このコースはサルテサーキットと呼ばれたが、現在存在するものとは異なる。初日のレース後から2日目のレース前まで全車が車両保管扱いとされ、これがパルクフェルメの始まりである。
 この第1回レースではルノーAK90CVに乗る、シッスー・フェレンツが優勝した。ルノーのテストドライバー兼エンジニアとして活躍したハンガリー人である。

 

 この第1回レースではルノーAK90CVに乗る、シッスー・フェレンツが優勝した。ルノーのテストドライバー兼エンジニアとして活躍したハンガリー人である。
 初期のグランプリでは車両の技術もまだ発展途上だったため、その車両規定ももっぱら車体重量で縛るという比較的緩やかなものだった。そのため排気量が1万ccを超える巨大なエンジンを搭載するマシンも多数あり、、また当時はメーカーと車両への表彰がメインだった。その中で、ルノー、パナール、フェアット、ベンツなどのメーカーが参戦して競い合うことで、性能とスピードは急速に向上していった。1914年にリヨンで開催されたACFグランプリからはエンジンの最大排気量を4500ccまで縮小された。
 1904年には、国際公認自動車クラブ協会(AIACR)という団体が、パリのフランス自動車クラブに間借りする形で、設立され、第一次大戦が終わると、21年からはACFグランプリとともにイタリアGPも開催されるようになった。以後、スペインGP(23年)、ベルギーGP(25年)と広がり始めた。そのなかでAIACRの国際スポーツ委員会(CSI)はグランプリ車両の統一フォーミュラーを制定する機関として機能していた。

 


【モータースポーツ大百科】グランプリレース(前編)
自動車の発達には自動車レースが密接にかかわっていた。新しい技術の多くは、まず車両規定で縛られたレースカーに採用され、市販車に広まっていくことが少なくない。

ドイツで誕生したガソリン自動車が特許を取得したのは19世紀後半の1886年のことだが、早くも9年後の1895年には歴史上初めてのスピードを競うレース、パリ〜ボルドー〜パリ(1180km)が開催されている。これ以降、レースに勝つためにマシンの性能は向上し、急速に高速化していった。これに呼応して1898年には安全を確保するため、初めてフォーミュラ(規格)が設けられた。以来、性能向上とフォーミュラ改定の関係は、現在まで続く“イタチごっこ”となった。

最初のフォーミュラは車両重量規定のみだったが、次第にそれだけでは不十分となり、排気量やエンジン自体の構造、ボディーの形状や寸法、空力、タイヤなどさまざまな項目で管理されるようになっていった。この、フォーミュラで管理されたレースの頂点に位置するのがグランプリレースで、現代の四輪レースではF1(フォーミュラ1)グランプリがこれに当たる。

初めてグランプリの名を冠したレースが開催されたのは1906年のことだ。ルマンの公道を閉鎖し、フランス自動車クラブ(ACF : Automobile Club de France)が、第1回ACFグランプリを開催している。このレースの勝者は、4気筒1万3000ccのエンジンを搭載したルノーAK 90CVに乗るフェレンク・シジズで、2日間、1236kmのレースを平均速度101.195km/hで走りきっている。1906年当時のフォーミュラは車重を1000kg以下とだけ定め、高速化につながる大排気量エンジンの搭載を抑えようとしたものだった。翌1907年には燃費規制を採用し、1908年にはピストンの表面積と車重を制限するなど、急速な技術革新に対応して目まぐるしく変わっていった。だが、厳しいフォーミュラは参加者の造反を招くこともある。オーガナイザーがフォーミュラを定めても、参加者(メーカー)がそれに従うとは限らず、規定から離れたフォーミュラ・リブレでグランプリレースが成立するシーズンも存在した。

1910年頃になると、大排気量エンジン搭載車を敵に回し、小排気量ながら軽量な車体と軽快な運動性を武器に勝利をおさめるマシンが出現した。その筆頭が、フランスのブガッティが造ったタイプ13で、1911年のACFグランプリ では2位に入賞している。優勝車のフィアットS61コルサは、4気筒1万ccの90bhpエンジンを搭載して車重は1010kgだが、ブガッティ・タイプ13の4気筒エンジンは1368ccの30bhpながら、車重はフィアットの3分の1以下の300kgと身軽で、動きも俊敏だった。

1914年には、グランプリ・レギュレーションとして初めて排気量制限が施行され、4500cc以下とすることが決まる。これにより、定められた排気量の中で最大限の出力向上を図ることが技術者の命題となった。エンジン効率を向上する技術として登場したのがDOHCエンジンだ。1912年のマシンにプジョーが初採用し、翌1913年のL3bizが大成功をおさめている。また過給器(スーパーチャージャー)も同様で、1922年から施行された排気量2リッター以下、車重650kg以下の規定に合わせて1923年にフィアットが採用して大成功をおさめた。これ以降、第2次大戦直後までの長きにわたってスーパーチャージャーを備えないグランプリカーは勝てなくなった。

レースで大きな成功をおさめてきたフィアットは、1927年シーズン末でグランプリレースから撤退。イタリアの期待は1920年の創業時からモータースポーツに積極的に取り組んでいたアルファ・ロメオに掛かった。その活動に大きく貢献したのが、フィアットから招いたヴィットリオ・ヤーノ技師と、チームマネジャーのエンツォ・フェラーリであった。また、マセラティも1926年頃からグランプリカーを手掛けるようになり、これ以降、しばらくイタリア勢がグランプリレースを席巻した。

(文=伊東和彦/Mobi-curators Labo.)