競馬: 昭和の名馬

シンザン

シンザン(1961年 - 1996年)は、1960年代に活躍した日本の競走馬、種牡馬である。史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬。1964年・1965年啓衆社賞年度代表馬。1984年に顕彰馬に選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「鉈の切れ味」と形容された。
注意:馬齢はとくに断りがない限り旧年齢(数え)での表記とする(一部満年齢の使用箇所あり)。

 

 

厩舎関係者による評価
武田厩舎に入厩した1961年生まれの競走馬のなかには、オンワードセカンド(母は牝馬クラシック二冠馬ミスオンワード、父はエプソムダービー優勝馬ガルカドール)や、ソロナウェー産駒のソロナリュー、持込馬のオンワードチェスなどがおり、それらと比べてシンザンへの評価はさして高くはなかった[注 3]。また調教でも担当厩務員の中尾謙太郎が同僚から冷やかされるほどに走らなかった。
中尾もはじめは「たいした馬ではない」という印象を抱いていたが、次第にシンザンに曖昧な感覚ながらも威厳や風格を感じるようになり、武田が管理した名馬と比べても遜色がないという印象を持つようになった[5]。また、武田厩舎の主戦騎手栗田勝も「コダマ[注 4]よりも上かもしれない」と感じるようになり、シンザンへの騎乗を希望した[6]。
一方、武田は年が明けてシンザンが4連勝を達成したあともオンワードセカンドのほうが強いと思っていた。そのためスプリングステークスを前に栗田が「オンワードセカンドとはものが違う。コダマより強い」と主張して皐月賞でのシンザンへの騎乗を希望したのに対し、思いとどまるよう説得した[7]。スプリングステークスで負けると思っていたシンザンが優勝すると武田も評価を改め、「俺は目が見えなかった。お前がこれほどの大物とは知らなかった」とシンザンに詫びたという[8]。

 

 

シンザン鉄
1月に厩務員の中尾はシンザンの右後ろ脚の爪が出血しているのを発見した。原因は後ろ脚の脚力が増した結果踏み込みが深くなり、後ろ脚が前脚の蹄鉄にぶつかっていることにあると判明し、武田が対策を考えた[12]。
対策として、当初は後ろ脚にゴムテープや革が巻かれたが、前者は馬場を歩くだけでとれてしまい、後者は水分を含む馬場に弱かった。試行錯誤の結果、装蹄師の福田忠寛とともに、後ろ脚の蹄鉄に通気穴の空いたスリッパのようなカバーを付けて後ろ脚の蹄を保護し、かつカバーがぶつかる衝撃から前脚の蹄鉄を守るため、前脚の蹄鉄に電気溶接によりT字型のブリッジを張った「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した[13]。
通常の蹄鉄の耐用期間は3週間ほどであったのに対し、シンザン鉄は1、2週間ほどで溶接部分がはがれ、使用ができなくなるという特徴があった[14]。シンザン鉄の交換は、シンザンが武田厩舎にいるときにはその都度行われた[注 12]が、シンザンが厩舎を離れて遠征するときには、あらかじめ作成した複数のシンザン鉄を中尾が持ち運んだ[15]。
このシンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があったため、脚部に負担がかかり故障を招く恐れがあったが、シンザンはリスクを克服した。また、この特殊な蹄鉄の重さゆえにシンザンは調教で走らなかったという説もある[16]。

 


ハイセイコー

ハイセイコー(Haiseiko)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。
※馬齢は旧表記[1]に統一する。

 

 

1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた[2]。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え[3][4]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり[5]、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった[6]。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく[7][8][9]、むしろ高まり[10][11]、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった[12]。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる[13]。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ[14]、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている[15]。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され[16]、顕彰馬に選出された。
競走馬引退後は種牡馬となり、自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に同牧場で死亡した。

 

 

 


トウショウボーイ

トウショウボーイは日本の競走馬である。1970年代半ばにテンポイント、グリーングラスと共に「TTG時代」を作り、「天馬」と称された。主な勝ち鞍は皐月賞、有馬記念、宝塚記念など。1976年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬。競走馬を引退した後に種牡馬としても大きな成功を収め、三冠馬ミスターシービーをはじめ7頭のGI級競走優勝馬を輩出。特に中小生産者に絶大な信頼を寄せられ、「お助けボーイ」と呼ばれた。1984年、JRA顕彰馬に選出。
馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。

 

 

初戦は4歳を迎えた1976年1月31日、東京競馬場の新馬戦で迎えた。直前の調教では1600mを1分45秒という当時の新馬としては破格のタイムを出し、素質馬として注目を集めていた[7]。当日は1番人気に支持されると、池上昌弘を鞍上にスタートから逃げ切り、2着に3馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。この競走には後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービーを産むシービークイン(5着)が出走しており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で圧勝。同時期、関西では5戦5勝という成績を挙げていたテンポイントがクラシックへの最有力馬と目されており、これに対してトウショウボーイは関東所属馬の筆頭格とされた。
当年の皐月賞は、4月18日に例年開催の中山競馬場で施行される予定だったが、これが春闘の最中に当たり、開催3日前に厩務員組合と調教師会の交渉が決裂。組合側がストライキを宣言して開催は順延となり、翌週25日に東京競馬場で行われる運びとなった。これで調整に狂いが生じたテンポイント陣営に対し、トウショウボーイは順調に競走当日を迎えた。当日の1番人気はテンポイント、トウショウボーイは2番人気であったが、レースでは先行策から最後の直線半ばで抜け出すと、テンポイントに5馬身差を付けての圧勝を収めた。走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催で行われた第34回競走(1974年)において、同父のキタノカチドキが記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。卓越したスピードであるが、首を低く下げて走る走法はあまり速く見えず、まるで脚とは別に翼がついているようだということで、競走後にはマスコミから「天馬」との異名を付され、以後これが定着した[8]。
皐月賞の圧勝を受け、東京優駿(日本ダービー)当日は単枠指定(シード)を受け、43%の単勝支持を受けた。レースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭を走り、余裕のある手応えで最終コーナーを回った。しかし直線入り口の地点で、クライムカイザー鞍上の加賀武見が「馬体を併せられると怯む」というトウショウボーイの弱点を突き、その外側から進路を横切るように内側へ抜け出す。怯んだトウショウボーイは残り200m地点で4馬身の差を付けられ、態勢を立て直して追走するも届かず、1馬身半差の2着に終わった[注 1]。加賀の騎乗は進路妨害と映ったが、しかし充分に間隔を取っての騎乗と認められ、加賀への制裁・戒告は行われなかった[9][10]。
北海道に戻り1ヶ月の休養後、7月11日に札幌記念に出走。これに併せてクライムカイザーも出走馬に加わり、当時ダートコースしか備えていなかった札幌競馬場には、入場人員記録となる60,549人のファンが訪れた。トウショウボーイは1番人気の支持を受けたが、スタートで立ち後れて後方からのレース運びとなる。最後の直線では追い込みを見せながらグレートセイカンにクビ差届かず、再度の2着に終わった。ダービーに続く敗戦の責を負わされる形で、この競走を最後に池上は降板となった。
クラシック最後の一冠・菊花賞に向け、秋は神戸新聞杯から始動。当時「天才」と称されていた福永洋一を新たな鞍上に迎えた。レースは先行策から直線入り口で抜け出すと、クライムカイザーに5馬身差を付けて圧勝。1分58秒9は芝2000mの日本レコードタイムであり、日本競馬史上初めてとなる1分58秒台の記録だった。それまでのレコードはシルバーランドが記録した1分59秒9であり、これを一挙に1秒短縮、関西テレビで実況アナウンスを務めた杉本清は「恐ろしい時計です、これは恐ろしい時計です」と驚きを露わにした[注 2]。続く京都新聞杯もクライムカイザーを退け、重賞2連勝で菊花賞に臨んだ。戦前から3000mという距離に対する不安説が出ていたが、当日は単枠指定を受け、単勝オッズ1.8倍の1番人気に推された。しかし最後の直線で一旦先頭に立ったものの、直後にテンポイント、グリーングラスに交わされた。レースは埒沿いを抜け出したグリーングラスが優勝、トウショウボーイは同馬から5馬身差の3着に終わった。競走後、福永は敗因として重馬場と距離不適に加え、神戸新聞杯がピークで、調子を落としていたとの見解を述べた[11]。
1ヶ月後、年末のグランプリ競走・第21回有馬記念に出走。福永がエリモジョージに騎乗するため、本競走から武邦彦を鞍上に迎えた[注 3]。当日はテンポイントや、天皇賞馬アイフルとフジノパーシア、同期の二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて1番人気に支持される。レースは好位から直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り優勝。1馬身半差の2着にテンポイントが入り、有馬記念史上初めて4歳馬が1、2着を占めた。走破タイム2分34秒0は2500メートルの日本レコード。当年、八大競走2勝含む10戦7勝という成績で、年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。

 


シンボリルドルフ

シンボリルドルフ (Symboli Rudolf) は、日本の競走馬である。日本競馬史上4頭目の中央競馬クラシック三冠馬(無敗で三冠達成した初の馬)であり、その他のGI競走を含めると史上初の七冠馬でもある。1984年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬、1985年度同年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。主戦騎手は岡部幸雄[1]。1987年、顕彰馬に選出された。
馬名「シンボリ[注 1]」は馬主の冠名、「ルドルフ」は神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ1世にちなんで名づけられた。その競走成績・馬名から「皇帝」、または「七冠馬」と称される。
※以下、馬齢はすべて2000年以前に使用された旧表記(数え年)にて記述する。

 

 

父パーソロンはリーディングサイアーに2度なった名種牡馬。母スイートルナはシンボリ牧場が生産した名馬スピードシンボリの産駒。スイートルナは初仔としてパーソロンとの間にシンボリフレンドを産んだ。シンボリフレンドは気性が悪く、京王杯スプリングハンデキャップを勝ったとはいえ期待以上の活躍ができなかった。その後も父パーソロン・母スイートルナの産駒は2頭生まれたが[注 2]、やはり気性難で大成できなかった。それでもシンボリ牧場の和田共弘はまたスイートルナにパーソロンを交配し、その結果1981年にスイートルナの4番目の産駒として生まれたのがシンボリルドルフだった。額に三日月に似た形がついているという特徴を持ち、誕生から立ち上がるまでにかかる時間がわずか20分だったという。牧場にいるころは「ルナ」と呼ばれていた。

 

 

1984年、4歳初戦として弥生賞(中山芝2000m)に出走。このレースはシンボリルドルフにとって3か月ぶりとなり、18キログラム増の馬体重で出走した。このレースではそれまで岡部が主戦騎手を務め4連勝中であったビゼンニシキが単勝1番人気となったがこれを1馬身4分の3差で破った。
皐月賞では弥生賞から22キログラム減の馬体重となった。前走で負った外傷による休養後、運動の遅れを取り戻すために行った強めの調教が原因だった。ふたたびビゼンニシキとの2強対決となり、2頭に人気が集中しそうだったため2頭とも単枠指定とされた。今度はシンボリルドルフが1番人気となった。シンボリルドルフは道中3番手で競馬を進め、第4コーナーでは先頭になった。直線に入るとビゼンニシキと一騎討ちになり、シンボリルドルフは外側を走るビゼンニシキと激しくぶつかり合い、外に斜行している。しかし最後はビゼンニシキを1馬身4分の1抑えてレースレコードで一冠達成。ただし、この斜行で岡部騎手は2日間の騎乗停止処分を受けている。表彰式で三冠を意識して岡部が一冠を示す1本指を指し示した(このパフォーマンスはのちにディープインパクトに騎乗した武豊も行った)。
東京優駿(日本ダービー)(東京芝2400m)はビゼンニシキとの「SBダービー」と呼ばれた。皐月賞に続いて揃って単枠指定とされた2頭の連勝複式馬券は銀行馬券と呼ばれ、今も投票額最高記録を維持している。しかし単勝ではオッズ1.3倍とシンボリルドルフの圧倒的1番人気だった。また回避馬が続出し、当時の戦後最少頭数となる21頭でのレースとなった。レースではスズマッハが逃げる展開となった。シンボリルドルフが向こう正面で岡部のゴーサインに反応しなかったために競馬場は騒然となったが、直線に入ると自らハミをとり3頭併せで先を行くスズマッハ・フジノフウウン・スズパレードを差し切り二冠達成。この出来事から岡部は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語っている。無敗での二冠制覇はトキノミノル、コダマ以来3頭目の快挙だった。ビゼンニシキは14着と沈んだ。ここでも岡部は表彰式で二冠を示す2本指を立てた。
ダービー後、和田はルドルフの海外遠征を計画。新聞などでも報道された[5]。しかし、ルドルフが右前脚に故障を発症したことと検疫条件が整わなかったことが重なり、7月に海外遠征の中止が発表された[6]。
秋緒戦、故障した右肩も回復し、すっかりリフレッシュしたシンボリルドルフはセントライト記念(中山2200m)をレコードタイムで優勝。そして、三冠最後の菊花賞(京都芝3000m)に挑む。道中は馬群の中団に位置し、第3コーナーではやや前の馬が壁になったものの、最後の直線で抜け出すと外から襲い掛かってきたゴールドウェイを4分の3馬身退け優勝。日本の中央競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を達成する。表彰式では岡部が三冠を示す3本指を立てた。シンボリルドルフの後、現時点で三冠馬は3頭いるが、関東馬によるクラシック3冠はシンボリルドルフを最後に出ていない。
そして3000メートルの菊花賞後、中1週の強行軍でジャパンカップ(東京芝2400m)へと駒を進めた。
前年の三冠馬ミスターシービーと、史上初の三冠馬同士の対戦となった第4回ジャパンカップだったが(2014年現在三冠馬対決はこの2頭のとき以外実現していない)、シンボリルドルフは下痢をするなど体調不良が大きく報道され、中一週、4歳ということもあって生涯最低の4番人気となった。1番人気は前走天皇賞(秋)を殿からの追込でレコード勝ちしたミスターシービー。2番人気はせん馬ゆえに本国英国のGⅠに出走できずも実力はGⅠ級と言われるベッドタイム、3番人気はアメリカのターフ(芝コース)ホースとしては世界の賞金王ジョンヘンリーに次ぐといわれるマジェスティーズプリンスだった。しかし、レースはノーマークの大逃げとなった10番人気の宝塚記念馬カツラギエースが逃げ切り勝ちを収め、史上初の日本馬のジャパンカップ優勝馬となった。シンボリルドルフは終始好位につけ、生涯最高の上がりを計測するも、ベッドタイムにも及ばず3着と敗れ、連勝記録は8でストップした。
初の敗戦後に迎えた有馬記念(中山芝2500m)は、シンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースが史上初の3頭単枠指定となり(有馬記念の単枠指定自体も初)「3強対決」として沸いた。シンボリルドルフはファン投票こそミスターシービーに次ぐ2位だったものの、単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持される。岡部は、前走カツラギエースにノーマークで逃げ切られた反省から、カツラギエースをマークする競馬に徹し、ジャパンカップの再現を狙って大逃げを図るカツラギエースの終始2番手を追走、最後の直線で計ったように交わすと、粘るカツラギエースに2馬身差をつけてレコードタイムで優勝し、中央競馬史上初の4歳四冠を達成した。表彰式で岡部は4本指を立てた。この年7戦6勝3着1回で年度代表馬に選出され、フリーハンデも4歳ながら前年のミスターシービーの65kgを越える史上最高の67kg(当時の数値)を与えられた。
弥生賞における岡部の選択[編集]
弥生賞・皐月賞・東京優駿でシンボリルドルフと対決したビゼンニシキは、共同通信杯4歳Sまでの4戦すべてに岡部が騎乗していた。そのため岡部がどちらに騎乗するかに注目が集まったが、ビゼンニシキ陣営が強力に騎乗を要請し、ビゼンニシキを管理する成宮明光は岡部が初めてクラシック(優駿牝馬)を優勝したカネヒムロを管理していたことからビゼンニシキに騎乗するという予想が多くなされた。しかし岡部はシンボリルドルフを選択した。このときの判断について岡部は「選択するとか迷うとかそういう次元じゃなかった。問題なくシンボリルドルフ。」と述べている[7][注 5]。結果的にはシンボリルドルフが弥生賞・皐月賞・東京優駿を優勝し、岡部の選択が正しかったことが証明される形となった。

 


ミスターシービー

ミスターシービーは日本の競走馬の馬名であり、日本競馬史において同名の競走馬が2頭存在する[注 1]。
ミスターシービー(初代)は1934年千明牧場生産。父はプライオリーパーク、母はフアーストストップ。第6回東京優駿大競走に出走し、同競走初の牝馬優勝馬となったヒサトモの10着に終わった。のちに障害競走へ転向し、1939年秋の中山大障碍で3着するなど、障害で4勝を挙げた。
ミスターシービー(2代目)は1980年千明牧場生産。1983年に中央競馬史上3頭目の牡馬クラシック三冠を達成し、のちに種牡馬。1983年度優駿賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬。史上初めて父内国産の三冠馬となった(2011年にオルフェーヴルも達成)。1986年、顕彰馬に選出。
本項では後者について記述する。

 

 

4歳時(1983年)[ソースを編集]
春 - クラシック二冠[ソースを編集]
翌1983年は、2月13日の共同通信杯4歳ステークスから始動。後方待機から第3コーナーで位置を上げていくと、前走で敗れたウメノシンオーとの競り合いをアタマ差制して優勝、重賞初制覇を果たした。続く弥生賞では、レース後半に内埒沿いのコースから馬群の間を縫うように上がっていき[7]、この時点で自己最速の上がり3ハロン35秒8を計時して快勝した。
4月17日、クラシック初戦・皐月賞を迎える。当日の競走は降雨の中で、追い込み馬には不利とされる不良馬場での施行となった。シービーは道中16-17番手を進むと、向正面から先行馬を捉えに上がっていき、最終コーナーでは先頭を行っていたカツラギエースの直後に付けた。最後の直線に入ると早々に先頭に立ち、直後に追い込んできたメジロモンスニーを半馬身抑えて優勝。クラシック最初の一冠を獲得した。これは吉永にとっても初めてのクラシック制覇であり、松山にとっては開業9年目での八大競走初制覇となった。
続く二冠目の東京優駿(日本ダービー)では、単勝オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に支持された。競走前のパドックにおいて、シービーのトレードマークともなっていたハミ吊り[注 3]が切れ、新馬戦以来のハミ吊りなしでの臨戦となった[8]。
20を優に越える頭数で行われていた当時のダービーには「10番手以内で第1コーナーを回らなければ勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがあった。しかしシービーはスタートで出遅れて最後方からの運びとなり、道中は先頭から20馬身程度離れた17番手を進んだ。その後、向正面出口から徐々に進出すると、第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで押し上げた[9]。しかし最終コーナーに入った地点で、外に斜行してきたタケノヒエンを回避した際、さらに外を走っていたキクノフラッシュと衝突した上、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となった。ミスターシービーはそこから体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に交わし、そのままゴールまで駆け抜けて1位で入線した。皐月賞に続き、2着にも追い込んだメジロモンスニーが入った。
競走後、第4コーナーにおけるキクノフラッシュとの衝突、ニシノスキーへの進路妨害に対する審議が行われた。この結果、ミスターシービーの優勝に変更はなかったが、吉永には開催4日間の騎乗停止と、優勝トロフィーの剥奪という処分が下された[10][注 4]。
秋 - 19年ぶりの三冠達成[ソースを編集]
競走後はクラシック最後の一冠・菊花賞に備え、夏場を休養に充てた。放牧には出されず、美浦に留まっての休養であったが、この最中に挫石[注 5]を起こして蹄を痛め、さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹った[11]。これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念[11]、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯に切り替えられた。
10月23日に迎えた復帰戦は単勝オッズ1.7倍の1番人気となるも、前走から12kg増と太め残りで、精気も乏しかった[注 6]。レースの流れも先行馬有利のスローペースで推移し、勝ったカツラギエースから7馬身以上離されての4着と、初めて連対(2着以内)を外す結果となった。しかし調整途上で一定の走りを見せたことで、松山は体調が良化したと判断し、クラシック最終戦へ向けて厳しい調教を課していった[12]。
三冠が懸かった菊花賞では1番人気に支持されたが、スタミナ豊富とは言えず、本競走にも敗れていた父の印象から、3000mという長距離に対する不安説も出ていた[13]。スタートが切られると、道中は1000m通過59秒4という速めのペースの中、最後方を進んだ。しかし周回2周目の第3コーナー上り坂から先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる最終コーナーの下り坂を、加速しながら先頭に立った。このレース運びに観客スタンドからは大きなどよめきが起こり、また関係者からも驚きの反応が出た[注 7][注 8]。しかしシービーは大きなリードを保ち続けて最後の直線を逃げ切り、1964年のシンザン以来19年振りとなる、史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成した。父内国産馬が三冠馬となったのは、日本競馬史上初めてのことである。また、デビュー戦から三冠達成まで全て一番人気に支持されており、こちらも史上初である[注 9]。
ゴールの後、民放テレビの中継アナウンスを務めた杉本清は、「驚いた、もの凄い競馬をしました。ダービーに次いでもの凄い競馬をしました。坂の下りで先頭で立った9番のミスターシービー」と驚きを露わにした[14]。後に吉永はレース運びについて、「ぼつぼつ行くつもりだったんだけど、シービーが全速力で行っちゃった。僕はただ捕まってるだけでしたよ」と語っている[15]。
競走後も好調を維持していたが、11月末の国際招待競走ジャパンカップは回避。さらに年末のグランプリ競走有馬記念も、千明牧場の意向により回避した。このローテーションには批判もあり、ジャパンカップの競走前に行われた記者会見では、英紙スポーティング・ライフ記者のジョン・マクリリックが「今年はミスターシービーという三冠馬が出たと聞いているが、出走していないのはなぜか。日本で一番強い馬が出ていないのはどういうことか」と、招待者である日本側の姿勢を問い質す場面もあった[16]。また、競馬評論家の石川ワタルは当時を回想し、休養を優先した陣営の心情に理解を示しつつも「正直なところ、失望した」と述べている[17]。
ちなみに有馬記念は菊花賞で4着に破った同期のリードホーユーが制し、2着にも同期のテュデナムキングが入線したことで、シービー世代の評価が高まった。
5-6歳時(1984-1985年)[ソースを編集]
「四冠馬」となる[ソースを編集]
翌1984年初戦にはアメリカジョッキークラブカップ出走を予定していたが、施行馬場が降雪によりダートに変更される可能性が高くなり、出走を取りやめた[18]。この頃より蹄の状態が再び悪化し、次走予定の中山記念も回避し、春シーズンは全休となった[18]。
10月初旬に毎日王冠で復帰したが、ほぼ一年ぶりの実戦、かつ追い切りで格下の馬に大いに遅れたためもあって、初めて1番人気を公営・大井競馬から中央に移籍してきたサンオーイに譲った。しかし、レースでは後方待機からカツラギエースを捉えきれず2着に敗れたものの、当時としては破格の上がり3ハロン33秒7(推定)を計時した[19]。なお、この前日から東京競馬場に初めて「大型映像ディスプレイ(ターフビジョン)」が設置され、後方を進むシービーがスクリーンに映った瞬間には、スタンドから大きな歓声が上がった[20]。
このレースで健在を印象付け、次走天皇賞(秋)(10月28日)では、単勝オッズは1.7倍という圧倒的な1番人気に支持された[21]。この回から3200mから2000mになった秋の天皇賞。レースは縦長となった隊列の最後方を進み、一時先頭から約20馬身の位置に置かれる形となる。しかし第3コーナーからスパートを掛け始めると、直線では最後方大外から全馬を抜き去って優勝し、四冠馬となった。走破タイム1分59秒3はコースレコード。また、この勝利によりシンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気連敗記録を19で止めた。
シンボリルドルフとの対戦 - 引退[ソースを編集]
この翌週に行われた菊花賞で、一世代下のシンボリルドルフがシービーに続くクラシック三冠を達成。シービーが次走に選択したジャパンカップに同馬も出走を表明したため、日本競馬史上初めてとなる三冠馬同士の対戦が実現した。ルドルフは菊花賞より中一週という強行軍、かつ初の古馬との対戦ということもあって、当日はシービーが1番人気、ルドルフは4番人気という順となったが、現在の評価に反して、純粋にシービーのほうが強い(と思う)という評価も多かった。しかしシービーは終始後方のまま10着と大敗。ルドルフも3着に終わった。レースは10番人気という低評価を受けていたカツラギエースが優勝し、日本勢として初めてのジャパンカップ制覇を果たした。この競走でシービーは闘争心を発揮しなかったといい[22]、また「シービーは、バテて下がってくる先行馬を見たら行く気を出したのだが、さすがにジャパンカップではバテる馬がいなかった」とも述べ、後に「先行策を採るべきだった」と、自身の騎乗ミスを口にしている[23]。
年末に迎えた有馬記念では、出走馬選定のファン投票で第1位に選出されたが、当日の単勝人気はシンボリルドルフに次ぐ2番人気となった。松山の「馬群に入って戦え」という指示もあってか、珍しくスタート直後から手綱がしごかれたが、やっと2頭をかわしただけで、スタンド前では逃げるカツラギエースからは15馬身後方の位置取りとなった。残り1000mで早めにスパートするも、インコースに突っ込んで前がふさがったため、早めに抜け出したシンボリルドルフ、さらに逃げ粘ったカツラギエースも捉えきれず、3着に終わった。
競走生活最後の年となった1985年は、3月31日の大阪杯から始動。当日1番人気に支持されるも、格下と見られたステートジャガーに競り負け、2着に敗れた。迎えた天皇賞(春)で三度シンボリルドルフと対戦。この競走では松山の指示により新馬戦以来となる先行策を採る作戦だったが[24]、実際は菊花賞と同じ二週目の坂で後方から一気にまくって出た。スズカコバンと並んで最終コーナーは先頭で回ったものの、そこで力つきたところを、ルドルフに楽々とかわされ、同馬から10馬身以上離された5着に終わった。これは作戦ではなく暴走だといわれているが、実は「後半から暴走させる」というのがシービーの戦法だったことが露呈したレースだった。
その後脚部不安を生じて休養、夏に函館競馬場に入って調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念し、引退[25]。同年10月6日に東京競馬場で引退式が雨の中で執り行われた。
翌1986年、四冠が評価される形で顕彰馬に選出。1984年に父トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となった。