競馬の歴史

起源
ウマの速さを競わせること自体は有史以前、ウマが家畜化された頃から行われていたと考えられている。古代ローマ帝国およびそれを引き継いだ東ローマ帝国などでは、映画『ベン・ハー』に見られるような戦車を引いたウマによる競走(現在行われている繋駕速歩競走は、この戦車競走の伝統を引き継いだものである)が行われていた。ローマやコンスタンティノープルなどには大きな競馬場が建設され、東ローマ時代には国家的な行事として競走が開催されていた。日本の平安時代の文献にも競馬(くらべうま)という表記があった。またユーラシア内陸部の遊牧民族の間では、現在でもモンゴル族などで行われているようなウマの競走が行われていた。紀元前12世紀のギリシャ競馬が最も古いとされている。


近代競馬の歴史
正式のルールに基づき専用の競技用施設(競馬場)において行われる競馬(近代競馬)は16世紀のイングランドに始まったとされ17世紀にはフランスやアイルランド、19世紀にはドイツやイタリアでも行われるようになった。また17世紀以降は、ヨーロッパ諸国の植民地であった国々を中心に、アメリカ・アジア・アフリカ・オセアニアなどの地域においても近代競馬が行われるようになった。
競馬において用いられる競走馬については17世紀後半から18世紀にかけてアラブ種やトルコ馬、バルブ馬などがイギリスへ輸入されて品種改良が行われ、やがてサラブレッドと呼ばれる品種が誕生した。サラブレッドについては1791年にジェネラルスタッドブックと呼ばれる血統書が作成され、以後その生産において血統が重視されるようになった。


競走の施行形態については18世紀後半頃まではヒートレースやマッチレースが主体であったが、これらの方式は競馬が産業としての要素を持ち始めた頃から衰退し、多数の馬による一発勝負のステークス方式へと主流が移行した。競走の賞金も馬主同士の出資によるものから始まったが、現在ではスポンサーの出資と馬券の売上金の一部、および補助金や積立金から賄われている。
競馬発祥の地イギリスでは、王侯貴族や有力者によって近代競馬が形創られた過程を鑑みて「スポーツ・オブ・キングス (Sport of Kings)」と形容する場面もある[2]。

 

日本の競馬

招魂社競馬
1870年(明治3年)に東京・九段の東京招魂社(現在の靖国神社)境内の馬場(1周500間、楕円形)で、兵部省主催による洋式競馬が行われた。これが、日本人の運営による国内初の洋式競馬である。以降1898年(明治31年)まで、招魂社(靖国神社)の例大祭に際して競馬が開催された。これを招魂社競馬という[5]。
なお1870年代以降、地方の招魂社(現在の護国神社)の奉納競馬としても競馬が行われるようになった。

 

 

中央競馬へ至る流れ
公認競馬の始まり
馬券黙許
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は、内閣直属の馬政局を設置して馬匹改良に着手した。馬政局は優れた種馬を選抜育成して質の高い馬を多数生産するとともに、馬の育成・馴致・飼養技術を高めた。さらに国内における官民の馬産事業を振興するためには競馬を行って優勝劣敗の原則を馬産に導入すると共に馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させる必要があるとして、馬券の発売を前提とした競馬の開催を内閣に提言した。賭博行為は違法であったが競馬は軍馬育成の国策に適うとして、桂太郎内閣は馬券の発売を黙許するとの方針を1905年(明治38年)に通達しこれにより馬券発売を伴う競馬の開催が可能となった[9]。


東京競馬会の成功
馬券発売が黙許されたことを受けて根岸の日本レース・クラブをモデルとした模範的な競馬会の設立が計画され1906年(明治39年)4月、加納久宜貴族院議員(子爵)を中心とする東京競馬会が池上競馬場を新設して日本人の手による初めての馬券発売を伴う競馬が行われた(先行する日本レース・クラブの横浜競馬場は外国人の経営)。同会の理事には加納をはじめ陸軍馬廠戸山厩舎長安田伊左衛門騎兵中尉、元文部大臣の尾崎行雄東京市長らが就任したほか競馬開催の実務経験の豊富な日本レース・クラブから数名の外国人役員が招聘された[10]。
当時考えうる超一流のスタッフを集め、とくに馬券の発売や払戻し、配当の計算、発馬、審判などの重要な業務には横浜から熟練の外国人スタッフを招聘して行われた第1回の開催は予想をはるかに上回る売上(4日間で96万円)を記録し大成功におわった。


日本競馬会による公認競馬

日本競馬会時代の東京優駿(1938年(昭和13年))

1936年(昭和11年)に日本競馬会が創設されることとなり競馬倶楽部は解散となり、競馬場などを財産は日本競馬会が所有することとなった(詳細については日本競馬会を参照)。
太平洋戦争の戦局が悪化する中、1943年(昭和18年)には馬券発売を伴う競馬開催の一時停止が決定され1944年(昭和19年)は京都競馬場および東京競馬場において能力検定競走という名目で施行されることとなった。翌1945年(昭和20年)には都心部での競走施行そのものが困難となったことから、能力検定の舞台を北海道と東北地方に移すこととなった。終戦直前の同年8月と終戦後の同年10月には、北海道および東北地方においてごく小規模な能力検定競走が行われた。
なお、終戦後まもなく日本各地で闇競馬が行われるようになった(詳細は闇競馬、および地方競馬において記述)が興行面で成功したものが多く公認競馬の再開を後押しする一因となった。なお、闇競馬の中には進駐軍が中心となって開催されたもの(進駐軍競馬)もある(詳細は進駐軍競馬において記述)。

 

 

戦後の1946年(昭和21年)10月、日本競馬会が主催する競馬は再開された。
これには畜産業の復興支援の他、当時際限が見えなかったインフレーション対策として浮動通貨の吸収という緊急の目的があり、その為、従来の1人1枚限りという馬券の発売制限が撤廃され10倍が上限だった払戻金の制限を100倍まで拡大するなどの処置が取られた。
だが、まもなく連合国軍最高司令官総司令部経済済科学局公正取引課によって日本競馬会が独占禁止法に違反するという指摘がなされ1948年(昭和23年)6月に日本競馬会は解散。同年9月からは競馬法に基づき、農林省の管理のもと国営競馬が行われるようになった。