アイルランド: 実際にはお手頃なUK

日本人のほとんどのかたには馴染みがないと思いますが、イングランドは長い間、アイルランドに対して非常に苛烈な弾圧を行っていたという歴史があり、その反動として「IRA」などによるテロ行為があります。

 

ヴォルテールのたしか「カンディード」だったと記憶していますが、18世紀にはすでにアイルランド人によるロンドンの爆破テロがあったことが描かれています。

 

そんなアイルランド(厳密には今回の記事は「北アイルランド」についてですが)が、大きく様変わりしたという記事にはわたしは大きな感慨を覚えるのです。

 

「テロ」というとどうしても人々はまず「怒り」が先に立ってしまって、有効な解決策を見つけられずにいますが、わたしにはひとつの考えがあります。もし、テロを起こそうとしている側、たとえば、アフガニスタンだったり、まあどこでもあなたの思い浮かぶ場所で構いませんが、それらの地域の人々の生活が「或る一定の生活水準」あるいは「未来への明るい展望」を持てているのであれば、仮に積年の恨みがあるにしても、それを捨ててまで、まして自爆までして報復に及ぼうとは思わないはずです。

 

日本にとっては、「北朝鮮」が目の上のたんこぶなわけですが、国際社会が徹底的に協力して、北朝鮮にまともな産業を根付かせて、医療や衛生面でもしっかりと改善したなら、核開発なんかに予算をつぎ込もうとは思わなくなるわけです。

 

はい、すいません。わたしの夢想です。

 


A little bit of Britain, a little bit of Ireland and little bit of something completely individual is how residents describe the capital of Northern Ireland.


Emerging from last century’s political turmoil – the period between the 1960s and 1998 commonly known as “The Troubles” – Belfast seems to have finally found its own stride, drawing more visitors than ever before.


No one has noticed this change more than the locals.
“Fifteen years ago, tourists were a rare commodity,” said Davy Sims, who lives in Holywood, five miles east of Belfast. “Now, many thousands make day visits coming off the hundreds of cruise liners that dock here during the season.”


The influx has meant a more vibrant food scene, too.

少しだけブリテンっぽくて、少しだけアイルランドっぽくて、それでいて少しだけどことも違っている、それが地元の人々が形容する北アイルランドの首都。

 

60年代から98年にかけての政治的な騒乱によって「トラブル」として広く知られてきたベルファストは、とうとう飛躍を遂げ、かつてないほどの多くの訪問者を集めるに至ったようだ。

 

地元の人々ほどこの変化に気がついている人はいない。

「15年前には観光客はまれでしたよ」とベルファストからほど近いところに住むSimsさんは語る。「この季節には港に乗り付けているたくさんのクルーズに乗って数千人が訪れているよ」

 

その大量流入はフード産業でも活発だ。

 


世界史の窓「アイルランド問題


19世紀、イギリスの支配下にあったアイルランドが自治、独立を求めて運動を行い、イギリス議会で対応する立法が行われた。

 イギリス宗教改革で成立したイングランドの国教会がアイルランドにも強要されると、アイルランドに多いカトリック教徒の反発が強まった。17世紀にはいり、ジェームズ1世の時代に北アイルランドにプロテスタントが入植するようになって、特に北アイルランドには新旧両派が混在する状態となった。
クロムウェルの征服
 1649年、ピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルは、カトリック勢力を抑えることを名目にしてアイルランド征服を行い、カトリック系住民の土地を奪うなど、実質的な植民地化を強行した。こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有となり、アイルランド人は小作人の立場におかれてきた。17世紀後半の王政復古期にはスコットランドの長老派信者が弾圧を逃れてアイルランドに移住して、北アイルランド(アルスター地方)ではプロテスタン住民の方が多数となり、信仰の違いからたびたびカトリック信者と衝突するようになった。
アイルランド併合と融和策
 アメリカの独立、フランス革命などでアイルランドでも独立の気運が高まったことに対し、イギリスのピット首相は、1801年1月1日、一方的にアイルランドを併合し、これによって国号は「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。カトリック教徒であった住民の多くは審査法によって公職に就けなかったが、オコンネルらの努力で1828年には審査法が廃止され、さらに1829年にはカトリック教徒解放法で信仰の自由と公職への就任が認められるようになった。これらはアイルランドとの融和を図る目的もあったが、カトリック教徒の公職への進出をプロテスタント側が反発し、その対立はかえって強まってしまった。
ジャガイモ飢饉と独立運動の激化
 産業革命に取り残されたアイルランドの小作人の貧困は1845~48年の大飢饉(ジャガイモ飢饉)でさらに進行し、多くのアイルランド人が移民としてアメリカなどに移住していった。そのような危機の中で、19世紀後半の民族主義(ナショナリズム)の高揚の影響を受けて、土地の獲得と自治の実現を激しく要求する運動が起こった。まず、1848年には青年アイルランド党が民族独立、イギリスとの分離を掲げて武装蜂起したが、鎮圧された。その後も、フィニアンと名乗る秘密組織が独立運動を続け、1867年にイギリス殖民地の白人支配地であるカナダの自治が認められたことに刺激されて、武装蜂起したが鎮圧された。
アイルランドの土地戦争
 1870年代には、アイルランド国民党が議会内で自治獲得の運動を行い、またアイルランド土地同盟が結成されて、小作人の解放を求めて起ち上がった。1870年、グラッドストン自由党内閣は「アイルランド土地法」を制定し、問題の解決をはかったが農民の不満は解消できなかった。1880年にはイギリス人地主と小作人の対立は激化し、アイルランド各地で両者が衝突する「土地戦争」(1880~83年)に発展した。しかし、アイルランドの農民を指導したアイルランド国民党のパーネルらも投獄され、本国の弾圧により、運動は退潮した。
アイルランド自治法案の否決
 1884年の第3次選挙法改正でアイルランド国民党が議席を伸ばすと、グラッドストンは議会内で国民党の支持が必要であったため、アイルランド自治法案を議会に提出しることにした。86年の第1次をはじめとして、3次にわたり提案したが、下院は通過しても、上院(貴族院)で阻まれ、成立しなかった。20世紀に入ってもアイルランド問題は、イギリスにとっての「のどに刺さったトゲ」として引き継がれていく。
Episode 「ボイコット」の語源
 ”仕事をボイコットする”などのように「ボイコット」という語は日本語化しているが、もとはこの時代のイギリス人のある人の姓から来ている。1880年、イギリス人地主の土地の管理人ボイコット大尉が、小作人のアイルランド人を追放しようとしたに対して、小作人は彼との交渉の一切を絶ち、召使いは家を離れ、商人は物を売らないという抵抗を行った。そのためボイコット一家が餓死に瀕して屈服するという事件が起こった。このことから、この法律に触れない抵抗運動は「ボイコット運動」というようになり、全国に広がった。

アイルランド共和軍

 

(アイルランドきょうわぐん、アイルランド語: Óglaigh na hÉireann、英語: Irish Republican Army、略称:IRA) は、アイルランド独立闘争(対英テロ闘争)を行ってきた武装組織である。アイルランド共和国軍と表記されることもある。
IRAの目的は、アイルランド自由国成立後は、北部6州と南部26州(共和国)とを統一すること、つまり北アイルランドを連合王国から分離させて全アイルランドを統一することにある。歴史上さまざまな組織・集団が「IRA」を名乗っているが、1969年以降の文脈においては、単にIRAといえばIRA暫定派(アイルランド共和軍暫定派、PIRA、プロヴォ)を指すことがほとんどである。

 

歴史


IRAのルーツは18世紀末にまでさかのぼり、現代でいうIRAは20世紀初頭のアイルランド義勇軍に始まった。アイルランド義勇軍は、北部6州のプロテスタント系武装組織アルスター義勇軍に対抗して結成されたカトリック系武装組織であり、1916年のイースター蜂起で主要な役割を担った。
アイルランド独立戦争後、1921年の英愛条約締結によりアイルランド自由国(後のアイルランド共和国)が成立したが、このとき北部6州が北アイルランドとして連合王国の一部に留まった。独立戦争を戦ったIRAの一部はアイルランド国防軍に加わったが、一部は英愛条約に反対し、非正規軍としてアイルランド内戦で国防軍と戦った。
1969年に内部分裂でIRA暫定派が別組織として分派した。1986年に暫定派から「IRA継続派」(CIRA[1])が分派し、さらに1998年のベルファスト合意を実現させた暫定派の和平路線への転換に強硬に反対したメンバーらが「リアルIRA」(RIRA[2])として分派した。

イングランドのイギリス支配

アイルランドは中世以降政治的統一がなされなかったために政治的指導者が存在しなかった
これがイングランドのアイルランド支配の発端となったのである
早くに統一を果たしたイングランドは
諸侯の間で分裂していたアイルランドに侵攻し服属させた


バイキングの脅威を経て小規模領主同士の争いが激化
敗れた領主の一人がイギリス王ヘンリ一2世に援助を求め
アングロ・ノルマン人のアイルランドへの移住・影響力の拡大をもたらした

イングランドはアイルランド各地方の豪族を支配下に置いて徐々に植民地化を進めた

アングロ・ノルマン人による植民地化が進むが、反抗され植民地は減少
イギリス人とアイルランド人の隔離といった政策がとられるようになる

この状況は、チューダー家のヘンリー7世の登場により変わる
植民者と土着のアイルランド人を引き離しておく従来の方針から一転
ゲールの文化や生活習慣を否定し、全島をイギリス化していく方針に転換した

その後、ヘンリー8世はイギリスで始めた宗教改革をアイルランドでも実施
ゲール勢力が強い地域ではローマカトリックが依然として信仰され続けた
これが後の宗教的な差別を受ける原因となった

アイルランド全土を統治した最初のイギリス人国王ジェームズ1世により
英国国教会、スコットランドの長老派教会などのプロテスタントが
アイルランドへ多く移入 プロテスタントによるカトリック(アイルランド人)への迫害が始まる

この宗教対立はやがて独立問題に発展する
その結果アイルランド人に対する迫害には独立運動への弾圧といった要素も加わる

特に17世紀の半ばにクロムウェルによって征服され
事実上植民地としての扱いを受けた
土地を取られ、民族全体が小作人に転落した
民族の言葉であるゲール語の使用も禁しられ英語を強制されるなど過酷なものであった

この地の民衆はもともとカトリックを奉ずるケルト人であり
その民族的反感から1792年にフランス革命の影響をうけた急進分子が
自治権獲得の運動をおこした

運動はフランス革命に助けられて98年には武装蜂起にまで発展したが
軍隊によって鎮圧された

この事態を憂慮したピットはアイルランドのグレートブリテンへの併合を決意した
その結果1800年に両国の合同が実現して
ダブリンのアイルランド議会はロンドンのイギリス議会に併合された

だが合同は両国にとってその後の長い苦難への第一歩となった

19世紀を通じて「イギリス内政の癌」といわれたアイルランド問題はこの時に始まった