昭和 ビジネスの巨人たち

松下幸之助

 

(まつした こうのすけ/1894年11月27日-1989年4月27日)は、和歌山県出身の実業家・発明家・技術者。日本を代表する電機メーカー「パナソニック」(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者であり、「経営の神様」とも称されている人物。16歳の時に大阪電燈(後の関西電力)に入社し、7年間勤務した後、妻や友人5人で電球ソケットの製造販売事業を開始(この時のメンバーには後に三洋電機を創業することとなる井植歳男がいる)。1918年に事業拡大に伴い「松下電気器具製作所」を創業。1935年に「松下電器産業株式会社」へと社名変更。1946年に「PHP研究所」を設立し倫理教育に乗り出す一方で、晩年は「松下政経塾」を立ち上げ政治家の育成にも力を注いでいた。

 


「失敗の多くは、成功するまでに
あきらめてしまうところに、
原因があるように思われる。
最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。」

「石の上にも三年という。
しかし、三年を一年で習得する努力を
怠ってはならない。」

 

「すべての人を
自分より偉いと思って仕事をすれば、
必ずうまくいくし、とてつもなく大きな仕事ができるものだ。」

 

「たとえ平凡で小さなことでも、
それを自分なりに深く噛みしめ味わえば大きな体験に匹敵します。」

 


1918年(大正7年) 松下電気器具製作所を創立


3人からの小さなスタート
1918年3月7日、幸之助は「松下電気器具製作所」を創設した。この日、幸之助は猪飼野の家では手狭なので、大阪市北区西野田大開町(現、福島区大開2丁目)の2階建の借家に移った。23歳の所主・松下幸之助、22歳の妻・むめの、15歳の義弟・井植歳男、若い3人だけの小さなスタートであった。
2階建の階下3室を工場に改造し、小型プレス機2台を置いて作業をした。扇風機の碍盤を製造するかたわら、所主は便利で品質のよい配線器具を作れば、一般の家庭にはいくらでも需要があると確信し、夜遅くまで配線器具の考案に没頭した。
そしてついに最初の製品「アタッチメントプラグ」、続いて「2灯用差し込みプラグ」を製作、発売した。これらは一般製品より品質がよく、価格も3~5割安かったので、評判になり、よく売れた。同年末、従業員は20人を数えるまでに成長した。
販売については当初、総代理店にまかせ、生産に専念することにしていたが、翌年、激しい値下げ競争に巻き込まれ、売上が急減した。そこで、所主は思い切って問屋と直接取り引きをすることにし、自ら販路の拡張に努めた。その結果、それまで以上に商品が売れ始め、ようやく危機を脱することができた。

 

・Panasonic「社史」より


井深大

 

(いぶか まさる/1908年4月11日-1997年12月19日/男性)は、栃木県上都賀郡出身の実業家、電子技術者。盛田昭夫(もりた あきお/1921-1999)と共にソニーの創業者の一人として知られる人物であり、同社を世界企業に育て上げ、日本初のテープレコーダーや日本初のトランジスタラジオを開発。特に同社が発売した携帯型ステレオカセットプレーヤー「ウォークマン(WALKMAN)」は、どこでも音楽を聴くことのできる製品として大きな話題となり、世界的な大ヒットを記録した。「ウォークマン」は、ポータブルオーディオの世界的な代名詞としても永らく使用され、現在ではソニー製ポータブルオーディオプレーヤーの総称となっている。1991年に勲一等瑞宝章を受章、1992年に英国王室から名誉大英勲章とナイト爵の称号を受けている。

 


「両親がひたむきに生きる姿自体が、
どんな幼い子にも、素晴らしい影響を与えるのです。」

 

「creative failure(創造的失敗)を、恐れるな。」

 

「一番のモットーは、
他の人が既にやってしまったことは、やらないこと。」

 

「この人にはこれだけしか、
能力がないなどと決めつけては、能力は引き出せません。」

 

「ものの種類であれ、
つくり方であれ、売り方であれ、新しいものを考案しよう。
人真似、猿真似はやめておこう、真似では勝利は得られない。」

 

「本当の経営者は、
来年、再来年に何をやろうかと言うときに、
ターゲットを広げず、むしろ狭めていく。
そこに集中するために、無駄を省いていく。」


焼け跡からの出発


 1945年9月、東京での新会社創設のため、井深 大(いぶか まさる・当時37歳)は樋口 晃(ひぐち あきら)、太刀川正三郎(たちかわ しょうざぶろう)などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京した。

 日本橋の白木屋の3階、電話交換台があった狭い部屋が新しい仕事場だ。焼け残ったとはいえ、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。それでも、だんだんと事務所らしい様相を呈してきた。
 10月、井深たちは念願の「東京通信研究所」の看板を掲げた。
 会社ができ、自分たちの持てる技術を世の中に役立てていきたいという目的はあったものの、正直言ってどの仕事から手を付けてよいか分からない。

 最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、何か仕事をしなくてはならない。それで思い付いたのが、ラジオの修理と改造である。研究所で短波放送の聴けるコンバーター(周波数変換器)を開発した。戦争で壊れたラジオ、敵の放送を聴くことができないようにと短波を切られたラジオが世間にはたくさんあった。これをスーパーやオールウエーブタイプのものに改良するのである。戦後の世界情況やニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と簡単に取り付けられるコンバーターは喉から手が出るほど欲しい。そのため需要は結構あった。

 また、こうした井深たちの仕事が朝日新聞のコラム"青鉛筆"で紹介されると、ますますお客が増えていった。しかも、これには余得があった。お互い気にかけながらも終戦のゴタゴタで消息の分からなくなっていた盛田昭夫(もりたあきお・当時24歳)から連絡があったのだ。戦時中、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦と共に愛知県知多郡小鈴谷にある実家に戻っていたが、ある日配られてきた『朝日新聞』に目を通しているうちに、井深の記事に気づき、すぐさま井深に手紙を出した。折り返し来た上京を促す井深の手紙を見るや、盛田は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出て、研究所に顔を出すようになった。これで、再び、井深と盛田の交際が始まった。

失敗作第1号の"電気炊飯器"
 ラジオの修理の次に研究所で手がけたのは、電気炊飯器。
 これは当時、軍需工場の閉鎖により一時的に電力が余っていたことと、日常生活に必要な商品を作りたいという井深の願望が一致したため考案されたのであったが、何分にも木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもの。水加減や米の種類によって芯があったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることのほうがまれというありさま。
 これは井深たちにして初めての失敗作第1号となった記念すべき商品である。

 むろんお金の取れる成功作もあった。真空管電圧計が官庁に納入されるようになったのである。こうして、1945年の暮れにはどうにか、井深たちの仕事も軌道に乗り始めていた。

 

・「Sony History」より

 


本田宗一郎

 

(ほんだ そういちろう/1906年11月17日-1991年8月5日)は、「ホンダ(本田技研工業)」を一代で築き上げた事で知られる戦後の日本を代表する経営者・技術者。高等小学校卒業後の1922年に自動車修理工場「アート商会」(後のアート金属工業)に入社(当時の表現では「丁稚奉公」)。1928年に「のれん分け」の形で独立。その後、社長業の傍ら浜松高等工業学校(後の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、金属工学の勉強にも励げむようになる。1945年に「人間休業」と称して1年間の休養をとった後、翌年に「本田技術研究所 (旧)」を設立。1948年に「本田技研工業株式会社」を設立。1949年に後の副社長となる「藤沢武夫」と出会い、ホンダを世界的な大企業に育て上げてあげていくこととなる。また、バイクの「三ない運動」が全盛期の頃には全国のPTAから「暴走族の親玉」と呼ばれ、徹底的に激しい非難を浴びせられていましたが、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、事態は終息に向かうこととなり、この事件を機に、全国の学校で「安全運転講習」が始められるようになったとのこと。

 


「困らなきゃだめです。
人間というのは困ることだ。
絶対絶命のときに出る力が
本当の力なんだ。
人間はやろうと思えば、
大抵のことは出来るんだから。」

 

「(F1レースでホンダターボエンジンの
圧勝を受けて、FIAがターボエンジンの
禁止を発表したことについて、
ホンダのチーム監督が宗一郎に
直訴したときの名言)

ホンダだけがターボ禁止なのか?
違うのか、馬鹿な奴等だ。

ホンダだけに規制をするのなら賢いが、
すべて同じ条件でならホンダが一番速く、
一番いいエンジンを作るのにな。
で、なんだ話ってのは?」

 

「かけがえのない「若さ」も、それを自覚していなければ
「豚に真珠」「猫に小判」で、あってなきに等しい。」

 

「こちらが悪ければ、
悪い人間が寄ってくる。
こちらが信用することによって、
信用される人間が生まれる。」

 


1949年 ドリームD型

Hondaのモーターサイクルの累計生産台数は、1997年10月に1億台を突破したが、その最初の1台は、1949年8月にデビューした、このD型から数えられる。ドリームという、Hondaを象徴するかのような名前を与えられたD型は、Hondaがモーターサイクルメーカーになった夢の証しだった。このネーミングの命名者は今は判然としない。
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ドリームD型の画期的な特長は"手によるクラッチ操作をなくす"ことにあった。一見クラッチレバーに見える左手のレバーは、前輪のブレーキレバーである
「忘れちゃったよ。今に世界のHondaになる、って、おれが夢みたいなことばかり言ってたから、だれかがドリームって言い出したんだろ」
と、後年、本田は言っている。
「おやじさんは、やっぱり、うれしかったと思いますよ。ちゃんとしたオートバイですから」(河島)。
D型エンジンの設計図も、河島が担当した。
D型はC型からの発展型だったが、外観にはもう補助エンジンの面影はなく、モーターサイクルにふさわしいデザインに進化していた。D型の組立ラインには、動力式ベルトコンベヤーも採用された。自製の独特のものだった。
「傾斜したラインで、組立工程に従って高い方から低い方へ流れるんです。作業する人間の姿勢を楽にする工夫ですよ。スイッチを押すとベルが鳴って、1工程分動くんです」
と、磯部は言う。量産体制への、さらに積極的なチャレンジが始まっていたのだ。
「けれど、前にも言ったように、部品の精度がまだまだですから、手加工修正が必要で、コンベヤーがすぐ止まっちゃう。でも、このチャレンジと経験のおかげで、組立ラインに渡すのはノー加工部品という基本思想が、みんなの心の中にしっかり染み込んだんです」。

 

・HONDA「語り継ぎたいこと」より