アストン・マーティン
個人的には、60年代のボンド・カーがレトロな感じでスゴく好きです。
アストンマーティンの歴史
デービッド・ブラウンとアストンマーティン
1947年、第二次世界大戦直後という厳しい経済環境下で、ある小さな英国の自動車メーカーが売りに出されました。農場主であり、工学分野の企業家でもあったデービッド・ブラウン卿は、新聞に掲載された広告を見て、わずか2万500ポンドでその会社を買うことにしました。彼は1939年に製造されたプロトタイプ「アトム」をベースとしたクルマを製造し、ビジネスを軌道に乗せる取り組みを始めました。
もちろん最近のモデルもとても「Pretty」!
*わたしはイギリスの「Top Gear」という番組が大好きなのですが、クルマが美しいと表現するときに、彼らは「Pretty」を使うんですね。日本人の持っている「Pretty」に対するイメージとはちょっとちがう感じがして面白いです。
アストンマーティンDB1
その結果として誕生したのは「2リッター・スポーツ」でしたが、後の時代にこれはDB1と呼ばれ始めます。デービッド・ブラウンの指揮下ではじめて生まれたクルマだからです。1948年のロンドン・モーターショーでデビューしたDB1は、15台が製造されました。
DB2
正式に「DB」のバッジを与えられた初めての車両であるDB2は、1950年のニューヨーク自動車ショーで公開され、1953年までに400台以上が製造されました。
ラゴンダに由来するストレート6エンジンを搭載したDB2は、ルマンとセブリングのレースで成功を収め、デービッド・ブラウンはアストンマーティンへのさらなる投資を決心します。同社はレースカーの製造に本格的に取り組み始めます。
DB4
アストンマーティンは、DB Mark
IIIとほぼ時期を同じくする1956年にDB4の開発に着手します。その開発に携わった中心人物は、ゼネラルマネージャーであったジョン・ワイヤー、シャシーデザイナーのハロルド・ビーチ、エンジンデザイナーのタデック・マレックです。DB4に使われたほとんどの主要部品は新設計されました。4シーターのボディはミラノのカロッツェリア・ツーリングが担当。アルミニウム製パネルを頑丈なプラットフォーム・シャシーに構築された鋼管フレームに被せる「スーパーレジェーラ」構造が採用されました。
DB5
007ゴールドフィンガーに登場し、「世界で最も有名なクルマ」とも呼ばれたジェームズ・ボンドのSilver Birch DB5は、少年たちの憧れの的でした。多くの人がアストンマーティンの歴史の中でもっとも美しいと考えるDB5は、DB4と多くを共有していますが、ボンネットの下に収まるエンジンは大きく変更されています。エンジンはボアを96mmにまで拡大して排気量は4リッターになりました。DB4
Vantageに搭載されていた3連SUキャブレターは踏襲、フェアリングに収めたヘッドランプもそのまま活用されました。
アルファロメオ
やっぱりこっちも60年代がいいんですよね。
ちょくちょくいろんなところが壊れるそうなのですが、それでも一度乗ったらやめられなくなるような魅力があるのだとか、いつかその感覚を味わってみたいものです。
ALFA ROMEO HISTORY
かつて、古代ギリシャの詩人ピンダロスが、オリンピック競技の勝者を称える詩を詠ったように、Alfa Romeoは“勇気”と“リスク”から生まれ出たものである。 そしてまた、“火”と“風”の、“優美”と“強さ”の子供である。Alfa Romeoは天才的な閃きか、思いがけない幸運のような、言葉を超越したものから生み出されたのだ。
レオナルド・シニズガッリ(イタリアの詩人 1999年)
1910年
「モータースポーツに初チャレンジ《 24 HPの “コルサ(レーシング)” バージョンが1911年のタルガ・フローリオに出場し、輝かしい成果を見せた。ドライバーのニーノ・フランキーニは、3台が巻き込まれるアクシデントで一旦は後退を余儀なくされたが、その後は素晴らしい速さでレースをリードすることになった。(彼は泥はねを目に受けて、前方視界が危うい状態だったという)
1914年
「Alfa Grand Prix -Alfa初の国際的GPカー-《 Alfaのブランドネームを世界的なものとするため、ジュゼッペ・メロージ技師がグランプリ・レースへの参戦を期して開発したマシン。この年に発効した新しいGPレギュレーションで許されていた最大排気量となる4.5リッターエンジンは、2本のオーバーヘッドカムシャフトでバルブを直接駆動するDOHC形式やツインスパーク・イグニッションなど、当時としては画期的なテクノロジーが満載されていた。
1921年
「20-30 HP《 20-30HPは、第一次大戦終了後のAlfa Romeoが最初に送り出したニューモデル。ジュゼッペ メロージ技師の手掛けたこのクルマは当時の富裕層をターゲットとし、技術およびパワー、フィニッシュに至るまでハイレベルを追求していたのだが、極めて高価なプライス設定があだとなり、わずか1年足らず、124台の生産でフェードアウトしてしまった。
1923年
「Alfa RM -Alfa RLのエコノミーモデル-《 1923年のパリサロンにて一般公開された新型車Alfa RMは、偉大なAlfa RLのエンジンとコンポーネンツを共用する4気筒OHV2リッターエンジンを搭載。Alfa RLとの最大の違いは、格段にエコノミーな価格であった。Alfa
RMは1923年の第3回アルパインカップでレースデビュー。6つのステージからなる約3000kmのコースを走破し、2リッターカテゴリーで4位入賞を果たした。総生産台数は500台と称されている。
「四つ葉のクローバー(Quadrifoglio)のシンボルが誕生《
記憶に残る年となった1923年、真紅のRLたちは燦然たる戦果を挙げた。マゼッティがムジェッロで優勝したのを皮切りに、シチリアのタルガ・フローリオではシヴォッチ、アスカリ、マゼッティの順で1-2、4位を獲得。そしてシヴォッチに優勝をもたらしたRLは、のちにAlfaのレーシングカーの象徴とも称される“四つ葉のクローバー”のエンブレムを掲げた最初のマシンとなった。
さらにアスカリはクレモナで優勝した上に、シヴォッチはモンツァのトゥリズモ・レースでも勝利してい
1933年
「Alfa 6C 1900 -Alfa 6C 1500の最終進化形-《 一連の6Cシリーズでは初めて軽合金ヘッドを与えられた。排気量は1917ccまでアップするが、翌年デビューするフルチェンジ版、Alfa 6C 2300にとって代わられるまでの約1年間に197台のみが製作されるに終わった。
1954年
「Giulietta -初めて女性の固有吊詞が与えられたモデル-《
初めて公の場に現れたのは1954年。まずは清新でダイナミックなベルトーネ製クーペボディを持つ"Sprint"からだった。Sprintが美しいスタイリングや俊敏なハンドリング、そして素晴らしいパフォーマンスで大成功を収めたのち、同じく驚異的なメカニズムを持つBerlina(サルーン)とSpiderも追加。直ちに大衆の熱狂的支持を受けることになった。1959年にはベルトーネ製の超高性能小型GT
Sprint Specialeと、Giuliettaのレーシングスピリットを決定づけることになるザガート製のSZも登場。今なお、歴史に残る傑作と称されている。
ポルシェ
ジェームズ・ディーンにことさら思い入れがあるわけではないのですが、やっぱりこれまた60年代の名車ですねぇ。
ポルシェ(ドイツ語: Porsche A.G. )は、ドイツの自動車メーカーである。正式な社名は Dr. Ing. h.c. F. Porsche AG であり、日本語に直訳すると、 「F (フェルディナント) ・ポルシェ名誉工学博士株式会社」となる。
正式名称、面白いですね。
このポルシェ博士がヒトラーに頼まれて(命令されて?)、ヴォルクスワーゲンを作ったのだとか。
「ポルシェ」と入力して、グーグル画像検索すると、こんな感じで似たような写真が並びますね。
「Top Gear」でも、いつも揶揄されていますが、「ポルシェのデザイナーはずっとサボってばかりだ、新作が発表されても、前作とデザインが変わってないじゃないか!」
でも、「変わらない」って、今の時代、貴重かもしれませんね。
フォードと言えば、庶民のためのお手頃価格というイメージなのですが、「GT」はまったくちがいますね!
見ていると子供の時のようにわくわくします。
1930年代の「フォード・モデルA」。
マックイーンよりも「ボニー・アンド・クライド」に惹かれるんですよね。
もはや「レトロ」という言葉も通り越してしまったような、昔のたたずまいがたまりません。
ヘンリー・フォードとフォード・モーター・カンパニーのはじまり。
●フォード・モーター・カンパニーの誕生
1903年6月16日、デトロイトの荷馬車店を改造した小さなオフィスに11人のスタッフが集まりました。それが、現在、
全世界で37万人の従業員をかかえるフォード・モーター・カンパニーの始まりです。ヘンリー・フォードは、
1863年にミシガン州の大きな農家に生まれました。16歳になったヘンリーはデトロイトに行き、機械工見習いとなり
ます。1891年にエジソン電気会社に入社したヘンリーは、その探究心の強さが認められ、技術者として順調に昇格。
やがて主任エンジニアになり、自由になる時間と金を手にしたことを機に、自宅裏の作業場で内燃エンジンの研究に
没頭し、32歳の時に自転車のタイヤを使った自動車「クオドリサイクル」を完成しました。クルマづくりの情熱が
芽生えた彼は、40歳で副社長兼主任エンジニアとしてフォード社を設立。フォード社は、1908年までにAから
Sまでのアルファベットを冠した車を開発しました。しかし、どの車も実験的要素が強く、また大衆にとっては高価で
あったために、あまりアピールすることはありませんでした。特に2500ドルの高級大型車K型フォードの失敗により、
ヘンリー・フォードは「安い車をつくるべきだ」という結論にたどりついていました。しかし、社長で資金の
調達役であったアレキサンダー・マルコムソンは異なる意見であり、社を去ります。そして、ヘンリー・フォードが
社長に就任しました。
●大衆のための車を目指したヘンリーの闘い。
私は大勢の人々のための車を作ろう。家族で使えるほどに大きく、個人でメンテナンスができるほどの小さい車を。
最高の原料を使用し、最高の職人が作る、最もシンプルな車を。誰もが神に与えられた屋外の空間で、家族と一緒に
楽しいひとときを過ごせるように」というヘンリー・フォードの理想が実現に向かって動き始めました。
しかし、ヘンリーは、そのためにクリアしなければならない大きな課題をひとつ抱えていました。当時、ジョージ・
セルデンという人物が「馬以外の動力で動くすべての乗り物」について特許を有していたのです。 ジョージ・
セルデンは巨大シンジケートと強力な弁護士をバックに莫大な特許料を要求してきました。現在でこそ、フォード・
モーター・カンパニーは世界有数の企業となっていますが、当時は草創期の小さな会社でした。
ヘンリーは、セルデン相手に敢然と戦いを挑み、8年後にようやく勝利したのです。彼の勝利は、たんにフォード・
モーター・カンパニーにとって意味があっただけではありません。以後、すべての自動車メーカーがリーズナブルな
価格で自動車を提供することが可能になったのです。
・フォード「会社情報」より
エジソンの激励で自信を深める
「今日私たちが自動車と呼んでいるものの実現を早めた点で、エジソンはもっと功績を認められなければならない」(『自動車王フォードが語るエジソン成功の法則』)
ヘンリー・フォードは、自分のクルマ作りの方向性が正しいものであると確信させたのはトーマス・エジソンの言葉だったと語っている。2人が初めて出会ったのは、1896年8月11日だった。ニューヨークでエジソン電気会社の代表者会議が開かれ、親睦を深めるための夕食会にフォードも出席していたのだ。
会食中、乗り物用蓄電池の充電が話題になった。電気事業者にとって大きなビジネスチャンスになるというのだ。当時は蒸気自動車、ガソリン自動車、電気自動車が混在する状況だったが、その場では電気自動車の優位を前提に議論が進行した。フォードは黙って聞いていたが、彼がガソリン自動車を作ったことを知ると、エジソンが興味を示す。4ストロークなのか、点火はどうするのかなどと矢継ぎ早に質問し、フォードが的確な説明を返すと、わが意を得たりというようにテーブルをたたいて彼を激励した。
エジソンの見解では、電気自動車は発電所の近くでなければ機能せず、バッテリーが重いのも欠陥だ。蒸気自動車はボイラーと火元を運ばなければならないので論外というしかない。フォードのガソリン自動車は自前の動力装置を積んでおり、高い可能性を秘めている。フォードにはまだ迷いがあったが、電気に関して世界一の知識を持っているエジソンが、モーターよりもガソリンエンジンのほうが動力として適していると断言するのだ。天才からお墨付きを与えられ、彼は自分の考えが正しいことを確信した。
3度目の起業で成功をおさめる
エジソンの助言を受け、フォードは改良モデルの開発にとりかかる。動力伝達の方法や電気関係の装備について、彼らは有益な議論を繰り返した。もともとはスターターと発電機を一体化する計画だったが、エジソンの意見を受け入れて別々のユニットに分けた。2人はプライベートでも親交を深め、互いに尊重し合う関係になる。しかし1899年、フォードはエジソン電気会社を辞めた。デトロイト自動車会社を設立し、本格的に自動車づくりを始めたのである。
デトロイトの実業家たちから資金の提供を受け、自動車の生産が始まる。しかし、それはフォードの理想とはほど遠いものだった。彼は農民たちに安価で使い勝手のいい乗り物を提供したいと考えていたのだが、その頃はよほどの金持ちでなければ自動車には手を出せなかった。できあがった製品は高価格であっただけでなく、性能も満足できるものではない。めぼしい実績を残せぬまま、最初の会社は1901年に解散してしまった。
次にフォードは、クルマを宣伝するためにモータースポーツでの勝利を利用しようと考えた。デトロイトで行われたレースに彼自身が出場して優勝を果たすと、もくろみどおり再び出資者が現れた。ヘンリー・フォード・カンパニーが設立され、新たな事業が始まる。しかし、すぐにフォードと出資者たちとの考え方の違いが露呈した。フォードはここでも大衆車の製造を目指したが、誰もその理想を理解しなかった。高価格なモデルを売って手っ取り早く利益を得ようと考えたのである。フォードは会社を去り、ヘンリー・リーランドが技師長を継いだ。会社名はキャデラック社に改められ、後にゼネラルモーターズ(GM)に合流していくことになる。
ここでも、やはり出資者たちと意見の相違が明らかになっていくが、フォードは前回の経験から、周到に事を進めていた。利益が出ると自分の出資を増やしていき、やがて株式の大半を押さえたのだ。ワンマン体制を築き、フォードの意思が会社の方針となる状況を作っていった。彼の陣頭指揮で作られた小型車のN型がヒットすると、豊富な資金を得ていよいよ計画を実行する条件が整った。1908年にデビューしたT型が、自動車の歴史を変えることになる。
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