19世紀アメリカ ビジネスの巨人たち

ジョン・ロックフェラー

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。
スタンダード・オイルを創業し、同社は石油市場を独占し、アメリカ初のトラストを結成した。石油業界を変革し、現代的フィランソロピーの構造を定義し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールした。[1]1870年にスタンダード・オイルを創業したロックフェラーは、積極的な経営を行い、その後1897年に事実上引退した[2]。スタンダード・オイルはオハイオ州で、ジョンと弟ウィリアム・ロックフェラー(英語版)、ヘンリー・フラグラー(英語版)、ヤベツ・A・ボストウィック(英語版)、化学者サミュエル・アンドリュース(英語版)、スティーヴン・V・ハークネス(英語版)によって創設された。
ケロシンとガソリンの需要の高まりと共に富も膨れ上がっていき、アメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となり[3]、彼が亡くなった1937年時遺産は14億ドル(2015年の価値では23億ドル[4])にも上ぼり、国の経済の1.5%以上であった。(2013年換算では2530億ドルになる[5])物価の変動を考慮すると、史上最大の資産を持つ富豪とされている[6][7][8][9]。
慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した[10]。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学(英語版)の創設資金を提供した。
熱心なバプテスト信者であり、生涯に亘って米国バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった[11]。

 


「私は災難が起こるたびに、これを良いチャンスに変えようと努力し続けてきた。」

 

「組織を活かすのは人間だ。機械でもなければ工場でもない。」

 

「事業は自分のためより人のためにすることで出発せよ。」

 

「もし、あなたが成功したいのなら、踏みならされ受け入れられた成功の道を行くのではなく、新たな道を切り開きなさい。」

 

「成功の秘訣は、あたりまえのことを、
とびっきり上手にすることだ。」

 


創業時の苦労話なんかないかなぁとネットを検索してみたのですが、「陰謀説」がたくさんヒットしました。

 

日本人にとって「ユダヤ人」というのは、それほど身近ではないのですが、一部の人はそこに短絡的な結論を見出してしまうのでしょう…

 


前半生

ニューヨーク州リッチフォードで、ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー(1810年11月13日 - 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。系図学者は、祖先の一部はフランスのユグノーで、17世紀にドイツに逃れたとしている[12][13]。父はかつて林業を営んでいたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を "Big Bill" とか "Devil Bill" と呼んだ[14]。旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけだった。父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だった[15]。イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた[16]。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ[17]。若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、彼は常に取引で有利になることを心がけていた。父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていた[18]。
少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しており、オウィーゴでは学校に通っている。1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移った。クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ[19]。
父の不在と頻繁な転居にも関わらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。当時を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できた。また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた[20]。早くから算術と経理の才能を発揮した。

18歳のロックフェラー(1857年ごろ)
1855年9月、16歳のとき、製造委託会社 Hewitt & Tuttle にて簿記助手の職を得た。長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになる[21]。特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立った。最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)だった[22]。当初から給料の約6%を寄付しており、20歳のころには10%をバプテスト教会に寄付している[23]。
若いころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたという[24]。
1859年、資本金4,000ドルでモーリス・B・クラークと共に製造委託会社を設立。そこで着実に利益を上げていった[25]。食料品の卸売りからはじめ、1863年には当時クリーブランドの工業地域だった「ザ・フラッツ」に建設される製油所に投資した。この製油所を直接所有していたのは Andrews, Clark & Company で、クラークとロックフェラーと化学者サミュエル・アンドリュース(英語版)とクラークの2人の兄弟が創業した会社である。石油産業は揺籃期だった。鯨油が大量に使用するには高価すぎるものとなり、安価な燃料が必要とされていた時代である[26]。
兄フランクが南北戦争で戦っているころ、ロックフェラーは彼の事業も引き継いでいる。北部の裕福な人々が戦う代わりに北軍に資金提供したように、彼も北軍に資金提供した[27]。石油産業史に詳しいダニエル・ヤーギンが重要だと指摘した出来事が1865年2月に起こった。クラークと対立したロックフェラーが持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は、処理能力が1日に原油500バレルであった。)を72,500ドルで買収したのである。その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。ロックフェラーも後に「その日、私の経歴が決定した」と述べている[28]。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、ロックフェラーはよい位置にいた。多額の借金をし、利益を再投資し、市場の変化に迅速に対応していった[29]。

アンドリュー・カーネギー

(Andrew Carnegie[2], 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2014年の今日でも慈善活動家としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。
スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業だった鉄道への投資で築いた。
1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルで同社を売却。エルバート・H・ゲイリー(英語版)のフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなった。
カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソン(英語版)に2万5千ドルを寄贈している[3]。ニューヨーク・カーネギー財団(英語版)、カーネギー国際平和基金(英語版)[4]、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。


「一番確実な方法は、
エネルギーのすべてを、
特定の分野に注ぎこむやり方だ。」

 

「よりよい成果が得られるのは、
自分が一番好きな仕事をしているときだろうね。
だから、人生の目標は、
自分が好きなことを選ぶべきなんだ。」

 

「チャンスに出会わない人間は、一人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。」

 

「失敗にしても、成功にしても、人間が何かを実現できるかどうかは、当人の習慣によって決まるんだよ。」

 

 

エピソード
カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていたさくらんぼに見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。


アメリカ移住
当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める[6]。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった[7]。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。
鉄道[編集]

16歳のときのカーネギー。
その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)[8]。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。また自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。


ジョン・モルガン

ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカの銀行家。父が起こしたJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となり、多くの巨大企業の創設・経営・統合に関係した。アメリカ最大の財閥の1つであるモルガン財閥の創始者。1913年にイタリアのローマで死去。


「何をおいても相手の人格です。お金で人格は買えません。金よりも何よりもまず人格が大切です。私の信頼を得られない人物は、私から金を借りることはできません」

 

「どこかにたどり着きたいと欲するならば、
今いるところには留まらないことを決心しなければならない」

 

「これからは経理を透明にして商売をする時代がやってくる。」

 


J・P・モルガンはその同時代における最も偉大な金融人の1人だ。子どものころには、自分の小遣いの収支を厳しく管理していた。大人になると、注意深くキャッシュフローを運用して巨万の富を稼ぎだした。南北戦争が起こると、それを儲けのチャンスと捉え、実際に儲けている。

 1862年、モルガンは、ダブリー・モルガン・アンド・カンパニーを設立する。1871年にはフィラデルフィアに本拠を置くドレクセルという企業と協力関係を構築し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立している。そしてあっという間にニューヨークにおけるトップクラスの金融人にのし上がった。

 経営者や政府関係者は決まってモルガンにアドバイスを求めた。モルガンはこれに応えて1895年、アメリカの財政危機を救うのに尽力している。また、アメリカ政府の反対をよそに、鉄道会社のボスをまとめあげようとした。いわゆる業界の「トラスト」を形成する強力な効果があったため、モルガンのビジネス帝国は、アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトによってしだいに分割されていった。

生い立ち

 J・P・モルガンは1837年4月17日、コネティカット州ハートフォードに生まれる。この年、アメリカは財政難に陥った。ところが、モルガンはその影響を受けなかった。父は日用品を扱う裕福な商人で、この財政危機を自分の商売に最大限活かしていたからだ。モルガンがまだ小さな子どものころ、父親は家族とともにボストンに移り住み、そこで綿の取引を仕事にした。

 モルガンは早くも子どものころから商売に関心を持ち始めた。子どもの遊びには目もくれず、時間があれば自分の出納帳に目を凝らし(この習慣は生涯続いた)、自分の小遣いの収支を細かく管理していた。モルガンには勉強好きの性質があった。それはビジネスや金に興味があったからでもあり、病気がちの体だったからでもある。子どものころはリューマチや湿疹などいくつもの疾患に苦しめられた。両親は非常に心配し、モルガンを治療のためアゾレス諸島にまでやっている。

 学校では決して人から好かれるような子どもではなかった。そのよそよそしい態度からクラスメートによい印象を持たれることはなかった。その性質はその後も続き、アメリカの一般大衆を同じように遠ざけている。パリに見事なフランス語で手紙を書いて、900ドルのブーツを注文するといったモルガンの習慣は、モルガンの尊大な印象をますます強くするだけだった。

 モルガンの受けた教育は、常に裕福な家族の一員にふさわしいものだった。家族がロンドンに移住すると、スイスのプライベートスクールに入れられた。ゲッティンゲン大学に学んだところ、その指導教師がその優秀さに感じ入り、ある教授の助手として大学に残るよう勧めた。大きな夢を抱いていたモルガンは実業界に入るつもりだと言って断った。

 

・「Diamond online」より