中国:「ミレニアル世代」はどんな演出体験を求めているのか?

今回は中国のネットニュースがどんなことを報じているのか、ちょっと見てみましょう。

 

以技术为主导的演出风潮很大程度改变了整个现场音乐市场,催生了专门为年轻观众量身定做的互动演出体验。

 

テクノロジー満載のファッションショーがライブ音楽マーケットを大きく変え、若者の双方向な演出体験が生まれている。

 

现场音乐依旧是音乐行业的“主菜”

 

ライブ音楽は今でも音楽業界の「メインディッシュ」

对于1983-2000年出生的这一代年轻人,国外称之为“Millennials”,即千禧一代。

 

1983年から2000年に生まれたものは、外国では「ミレニアル世代」と呼ばれている。

 


うーん、経済的な数字を見ると、というか、中国の場合、まともな数字がないというヒドい有り様からすると、かなり厳しい未来が待っているようにも見えますね。

 

でも、「経済崩壊」もっと詳しく言うと「財政破綻」したからと言って、「国」が崩壊するわけではないというのは、ちょっと言っておきたい。

たとえば、韓国は事実、1997年に財政破綻して、IMFから大きなお金を借りたわけですが、別に「韓国崩壊」というわけではないですよね。

 

もっとわたし自身の体験から言うと、中学生の頃に「バブルが崩壊」し、それによって悲惨な状況に陥ったというようなイメージで振り返られますが、けっこう自分はそんなことお構いなしに青春を謳歌していました。

 

また、経済という面にもう一度戻るなら、「バブル崩壊」が実体経済を侵し始めたというのに、97年には日本円は最高値を更新して、かなり長い間その記録は破られませんでした。

 

「不良債権問題」とかいうヤツが日本社会全体に重くのしかかって、ひどく息苦しかったような記憶はありますが、それでも、わたしはツタヤからCDを借りてきては、カセットテープに録音し、しばらくするとMDに録音し、そう長い時間が立たないうちにMP3に変換してPCに大量に保存し、それを圧縮したまま大量にCDに焼き付けたりしていました。

これから中国は、或る種の反動で(すべての作用には反作用があるように、急成長にはそれにともなう代償があり)いろいろな悲劇が生み出されていくことでしょう。それでも、若者というのは気楽に新しいことにどんどんと取り組んでいって、気がつけば今ままで考えられなかったようなことが当たり前になっていたりするものです。

 

人間の社会って、わたしが少し歴史を紐解いてみただけでも、いわゆる「バタフライ・エフェクト」と言いますか、思いがけない発展の連続なんですよね。

 


吉川英治「三国志」

桃園の巻

「ああ、酸鼻さんびな――」
 劉備りゅうびは、つぶやいて、
「ここへ自分が泊り合せたのは、天が、天に代って、この憐あわれな民を救えとの、思おぼし召めしかも知れぬ。……おのれ、鬼畜どもめ」
 と、剣に手をかけながら、家の扉とを蹴って、躍りだそうとしたが、いや待て――と思い直した。
 母がある。――自分には自分を頼みに生きているただ一人の母がある。
 黄巾の乱賊はこの地方にだけいるわけではない。蝗いなごのように天下いたるところに群むれをなして跳梁ちょうりょうしているのだ。
 一剣の勇では、百人の賊を斬ることもむずかしい。百人の賊を斬っても、天下は救われはしないのだ。
 母を悲しませ、百人の賊の生命いのちを自分の一命と取換えたとて何になろう。
「そうだ。……わしは今日も黄河の畔ほとりで天に誓ったではないか」
 劉備は、眼をおおって、裏口からのがれた。
 彼は、闇夜を駈けつづけ、ようやく村をはなれた山道までかかった。
「もうよかろう」
 汗をぬぐって振りかえると、焼きはらわれた水村は、曠野こうやの果ての焚火たきびよりも小さい火にしか見えなかった。
 空を仰いで、白虹はっこうのような星雲をかけた宇宙と見くらべると、この世の山岳の大も、黄河の長さも、支那大陸の偉いなる広さも、むしろ愍あわれむべき小さい存在でしかない。
 まして人間の小ささ――一個の自己のごときは――と劉備は、我というものの無力を嘆なげいたが、
「否いな! 否! 人間あっての宇宙だ。人間がない宇宙はただの空虚うつろではないか。人間は宇宙より偉大だ」と、われを忘れて、天へ向ってどなった。すると後ろのほうで、
 ――然しかなり。然なり。

(中略)

「やい、老いぼれ」
 甘洪かんこうは、半月槍の柄で、老僧の脛すねをなぐった。
 老僧は、やっとにぶい眼をあいて、眼の前にいる甘と、馬と、劉りゅう青年を見まわした。
「食物があるだろう。おれたちはここで腹支度をするのだ、はやく支度をしろ」
「……ない」
 老僧は、蝋ろうのような青白い顔を、力なく振った。
「ない? ――これだけの寺に食物がないはずはねえ。俺たちをなんだと思う。頭髪あたまの黄巾きれを見ろ。大賢良師張角様の方将ほうしょう、馬元義というものだ。家探しして、もし食物があったら、素ッ首をはね落すがいいか」
「……どうぞ」
 老僧は、うなずいた。
 馬は甘をかえりみて、
「ほんとにないのかもしれねえな。あまり落着いていやがる」
 すると老僧は、曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろくにかけていた枯木のような肘ひじを上げて、後ろの祭壇や、壁や四方をいちいちさして、
「ない! ない! ない! ……仏陀の像さえない! 一物もここにはないっ」と、いった。
 泣くがような声である。
 そしてにぶい眸ひとみに、怨みの光をこめてまたいった。
「みんな、お前方の仲間が持って行ってしまったのだ。蝗いなごの群れが通ったあとの田みたいだよここは……」
「でも、何かあるだろう。何か喰える物が」
「ない」
「じゃあ、冷たい水でも汲んでこい」
「井戸には、毒が投げこんである。飲めば死ぬ」
「誰がそんなことをした」
「それも、黄巾こうきんをつけたお前方の仲間だ。前の地頭じとうと戦った時、残党が隠れぬようにと、みな毒を投げこんで行った」
「しからば、泉があるだろう。あんな美麗な蓮花はちすが咲いている池があるのだから、どこぞに、冷水が湧わいているにちがいない」
「――あの蓮花が、なんで美しかろう。わしの眼には、紅蓮ぐれんも白蓮びゃくれんも、無数の民の幽魂ゆうこんに見えてならない。一花、一花呪のろい、恨み、哭なき戦おののきふるえているような」
「こいつめが、妙な世まい言ごとを……」
「嘘と思うなら池をのぞいてみるがよい。紅蓮の下にも、白蓮の根元にも、腐爛ふらんした人間の死骸がいっぱいだよ。お前方の仲間に殺された善良な農民や女子供の死骸だの、また、黄巾の党に入らないので、縊くびり殺された地頭やら、その夫人おくさんやら、戦って死んだ役人衆やら――何百という死骸がのう」
「あたり前だ。大賢良師張角様に反そむくやつらは、みな天罰でそうなるのだ」
「…………」
「いや。よけいなことは、どうでもいい。食べ物もなく水もなく、一体それでは、てめえは何を喰って生きているのか」
「わしの喰ってる物なら」と、老僧は、自分の沓くつのまわりを指さした。
「……そこらにある」
 馬元義は、何気なく、床を見まわした。根を噛かんだ生草なまぐさだの、虫の足だの、鼠の骨などが散らかっていた。